2254 奥多摩:辛垣城跡
  
期   日:2025年11月19日(水)
天  候:晴
参 加 者;男性3名、女性1名 
歩  行;約3時間
費  用:約2000円(浦和基準)
コ ー ス:二俣尾駅(標高237m。以下同。)10:40・・・海禅寺(247m)10:50・・・桝形山登山口・・・桝形山城跡(376m)11:30
      ・・・物見山(405m)11:55(昼食休憩)・・・名郷(長尾)峠(387m)12:30・・・城跡巻道分岐・・・辛垣城跡(450m)12:50
      ・・・辛垣山(456.8m)12:55・・・雷電山(494m)13:35・・・榎峠(320m)・・・平溝橋(314m)(高水山分岐)
      ・・・駅(250m)15:00≪解散≫
       
 子供の頃から歴史好きで、各地の城を見て回りましたが、山城跡へは行ったことなく今回申込しました。しかし、その後、連日のクマ報道で躊躇していましたが、Tリーダーに加え山行経験豊富なNさんが参加されることが判り、それならば大丈夫かなと思い参加しました。
 当日は素晴らしい晴天で、最近入会されたHさんも山行経験ありとのことで心強く思い、歩き始めました。
 まずは、海禅寺に参拝し今回の山行安全を祈願。海禅寺は三田氏(鎌倉時代から戦国時代にかけて青梅近辺を支配した一族で、大永年間(1521~28)戦国大名北条氏が武蔵国に進出してきたためその傘下に入った。永禄3年(1560)上杉謙信が関東へ出兵すると、三田氏は北条氏から離反し上杉の陣営に馳せ参じた。上杉謙信は北条氏の本城・小田原城を包囲するが、攻め落とすことが出来ず、越後へ帰国してしまう。永禄6年(1563)、三田氏は北条氏に攻撃され滅亡した。)の菩提寺で、今回の目的地辛垣城は三田氏の砦です。
 桝形山登山口から桝形山城跡へ。桝形山城跡整備竣工記念の企業石碑(平成30年5月)が設置されている。桝形山城の歴史的経緯は不明で、辛垣城と尾根続きの至近距離であることから、辛垣城の支城か、北条側が辛垣城を攻める際に築いた城、又は辛垣城落城後に北条氏が武田氏に備えて築いた城と考えられているらしい。桝形山城跡から青梅の市域がよく見える。桝形山頂付近の大山祇神を祀る石碑の前で記念撮影。
 桝形山城跡から物見山へ。物見山とは見張り台のことと思われる。恐らく三田のは、眼下に迫る北条の軍勢の動向をここから見ていたのだろう。本丸の辛垣城へは狼煙で情報伝達したのだろうか。
 我々は辛垣城を攻める北条兵の気分で登っていく。所々でTさんから、ここは郭、空堀、土塁、虎口等と解説がある。Tさんは学生時代、歴史が得意だったとか。
 物見山から辛垣城跡へ。地形を利用した固い守りの城から放たれる弓矢や火縄銃(この時期、三田氏が火縄銃を使っていたかは微妙ではあるが)で、我々が北条兵なら討ち死にしていることだろう。
 やっと攻め登った辛垣城には、青梅市教育委員会の城と三田氏の興亡を記した案内板が立っている。城主は落城後、岩槻へ落ちのびたが、その地で自害し、三田一族は滅亡したとのこと。 辛垣山から雷電山へ。
  雷電山は青梅丘陵の最高峰。大昔、ここで雨乞いをしたところ雷雨が生じたのが山名の由来とか。雷電山と標高494mの標識が立っている。
 雷電山からは下りで脚がきつい。Tさんの後について恐々降りてゆく。 やっと山を降りて国道脇の空き地で暫く休憩。ホットして身体からチカラが抜けた様な気がし暫く雑談。その後、国道411号を軍畑駅まで歩き解散しました。
 心地よい疲れと達成感で満足一杯の一日でした。クマに出会わなくて良かったです。 企画していただいたリーダーありがとうございました。参加者のみなさん、いろいろ教えて頂きありがとうございました。

(S  記)




1 三田氏菩提寺である「海禅寺山門」


2 桝形城跡登山口

3 桝形城跡⓵

4 桝形城跡⓶

5 辛垣山山頂

6 雷電山山頂からの飯能方面眺望


7 下山口の榎峠(青梅丘陵登山口)に下山

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