NO.1265 歴史の道Kハイク −太閤秀吉
一夜城「石垣山」

期 日 2016年11月13日(日)
参加者 10名
天 候 
費 用 3,040円(大宮起点交通費:JR休日おでかけパス・箱根登山鉄道
実歩行  5時間30分
コース
JR大宮7:40―早川駅9:50―真福寺(早川観音)―東善院・早川観音10:00―久翁寺―ミカン畑の農道―石垣山11:10一夜城歴史公園12:30―早川石丁場跡―太閤橋―長興山紹太寺13:45―箱根鉄道・風祭―JR小田原駅14:45 解散

 上野東京ラインや湘南ラインが開通し、埼玉から乗り換えなしで手軽に小田原の先まで行けるようになり、実に便利になったものだ。東海道線早川駅で下車。晩秋にもかかわらず小春日和のような快晴・無風のなかスタート。駅前ロータリーを右回りに進み、JRのガードをくぐり、道なりに進むと真言宗の古刹「真福寺・通称・早川観音」に立ち寄る。お堂の傍らに石碑が数基あり苔むした表面を解読するには困難な状態であったが、孔子の論語にある三猿の石碑が特に古さを感じさせた。新幹線のガードを過ぎると石垣山へのコースに入る。城跡へのコースは「関白道」と「ミカン畑の農道」があり今回は農道を登ることに。海抜8mから石垣山の頂上・天守閣261mまで掛け値なしの標高を体験する。最初からの登り勾配が非常に急で辛い!このあたりの地形のせいか、すべてのミカンの木が低く2mくらいの高さでたわわに実を付けて広がっていた。¥200のミカン袋が無人で置かれていて、のどの渇きに丁度良かった。農道は振り返ると西湘バイパスと相模湾が眼下に見える好展望でさらに歴史公園への道標が数多くありわかりやすい。関白道路との合流から300メートルで標識通り一夜城入口に到着した。大きな駐車場と早川駅からの休日運航の乗合バスの停留所がある。丁度到着したバスには城見学者で満員だった。大河ドラマの真田丸の影響であろうか城見学ブームで賑わっている。リーダーの説明であの近江の石工集団「穴太衆」の技術力で造られた野頭積に400年前の世界が迫ってきた。整備された坂道を上ると本丸と並んで最も広い曲輪二の丸に到着。続いて西曲輪から野面積の石垣を見ながら本丸曲輪に上ると261mの頂上に出る。展望台から小田原市内・小田原城そして相模湾がパノラマで広がっていた。城郭規模は東西550m、南北300mあり木々を目隠しにして、延べ4万人を動員した築城はわずか80日で構築されたという。秀吉は築城にあたり山頂の林の中に堀や櫓の骨組みを造り白紙を貼って白壁のように見せかけ、完成後に秀吉が目隠しになっていた周囲の木々を一斉に伐採させた。小田原城から眺めると、その光景が一夜のして現れた城に見えたことが「一夜城」の由来となっているとのことだ。ところでこの城は関東で最初に造られた総石垣の城で、長期戦に備えた本格的城である。小田原城包囲の戦いは天正18年(1590)4月3日から始まり、結局、7月5日、北条氏直は開場し降伏し後北条氏は滅亡した。昼食後、箱根登山鉄道側への下山は、途中に石垣山城の築城で利用された「早川石丁場」の跡や石引の跡の史跡群を見ることができた。また開墾碑が残る荒れ放題の棚畑の茶・果樹に心痛む時の流れを感じた。太閤橋を渡り旧東海道に入り、黄檗宗・紹太寺の入り口でリーダーから本日最後の歴史説明であの春日局の墓地の話を聞き、箱根登山鉄道・風祭駅隣接の小田原蒲鉾鈴廣ショップ(新春恒例・箱根駅伝の中継地)で一休み。小田原駅解散となった。訪れる土地の歴史や文化を知ることも山登りハイクの醍醐味であるなあ〜と感じた。    (Y記)



JR早川駅でご挨拶


真福寺近くの三猿の石碑。どうしてここにあるの?


石垣山目指して、蜜柑畑を行


お父さんのお手伝いだって。偉いなあ


手前の広い通りが、関白道路


おやおや、もうお買い物?先は長いのに


一夜城跡へGO


今も残る当時の石垣


本丸跡へ向かう。観光の人も多い


天守台跡で、秀吉を偲んで、パチリ


ここから4km先の小田原城を睨んでいたのだ


早川石丁場跡近くに、「故」あって放置された石垣用の巨石。400年前から.....



帰路は箱根登山鉄道「風祭」駅から